教えること、教わること


合気武術を学ぶ上で、一方的に教える・教わるという事はありません。

これはちょうど、合気武術の技を行うのにどちらか一方の意図だけでは成り立たないのと同じです。

お互いの合意による相互作用によって、学びの場が形成されるという事です。

 

「教うるは学ぶの半ば」という言葉もあります。

人に教えようとすることで、自身の学びが深まるということです。

 

▶︎知覚と認識

合気武術に限らずどんな場面でも同じかと思うのですが、人に教えるというのはなかなか困難なものです。

どうしても言葉足らずになってしまったり、ちゃんと伝えたはずなのに全く違うふうに受け取られていたりといった問題が生じるからです。

これらの多くは「認識の違い」からくるものなのですが、認識が言葉によって行われるものだということを知らなければ解決できません。

人は知覚している全ての情報を100とすると、その内のわずか0.001%程度しか認識していないと言われています。

温度や湿度、空気の流れや小さな音などの微細な情報は、感じられるが言語化されないため認識にはのぼりません。また、各人のクセや立ち方などの基本的な動作も無意識のうちに行われていて、言葉にすることは困難です。

こういった言葉にならない微妙な動きや力の入れ具合、相手との間の取り方などは、すべて“なんとなく”で処理され、「コツ」あるいは「経験の差」という言葉で片づけられてしまいます。

この認識されない「コツ」や「経験」を、どうにか言葉にして相手に伝えようとすることによって、自分自身の中でも曖昧だった部分が明確になり、より深い理解が得られるのだと思います。

 

▶︎受け取り方は様々

またある道歌には、次のように詠まれています。

春雨の分けてそれとは降らねども、受くる草木は己が様々

先生が同じように伝えたとしても、受け取り方は人それぞれだという歌です。

これは「教える側がどんなに伝えようとしても、教えを受ける人は自身のわかる範囲でしかわからない」というふうに私には受け取れます。

教えを受ける人の受け皿が整わないうちには、どれだけ伝えようとしても受け皿以上のものはポロポロとこぼれ落ちて、残ったものは元の形とはまるで違っているものです。

今思えば、私の先生もどれほどもどかしかったことかと、恥ずかしいやら情けないやら、本当に申し訳なく思います。

 

▶︎成長するタイミング

また、場合によっては、教える側のお節介が学びの邪魔をすることもあります。

例えばAについて教えて下さいと頼まれたとき、教える人が「Aを理解するためにはBが必要だ」と考え、Bについて説明を始めてしまいます。さらにはCもDも、と次々に尋ねられていない情報を与えられるものですから、教えてくださいと頼んだ方も現在地を見失って余計に混乱してしまいます。

水場に連れて行ったとしても、水を飲むかは馬次第である(無理には教えられない)という例えもありますから、何かについて聞かれたら、相手の立場になって、極力端的に伝えられるように努力すべきですね。

 

 

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